一周忌:池田温先生(武蔵野音楽大学名誉教授)追悼

一周忌:池田温(いけだゆたか)先生(武蔵野音楽大学名誉教授)追悼

一年前の今日、2015年10月1日に、武蔵野音楽大学名誉教授であり、音楽学部音楽環境運営学科の設立、運営にご尽力された池田温先生がお亡くなりになりました。一年前の今日といえば、ドイツ・ボンで「日本が愛した印象派」展の設営に立ち会っていたため、ご葬儀にお伺いすることもできませんでした。
2015年度に、武蔵野音楽大学音楽学部音楽環境運営学科では、この数年刊行している「年間活動報告書」の第4号を発行し、そのなかで、池田先生追悼の特集ページをつくりました。下記のリンクのPDFファイルの52-57頁がそこにあたります。

http://www.musashino-music.ac.jp/files/9614/6891/4045/ongaku-kankyo-nenkan-houkoku2015.pdf

そのなかで、関係者の方々が池田先生との思い出を語るページも作りました。
私もその中の一人として短文を掲載しました。上のリンクからでも結構ですが、この機会に、私の部分のみここに再掲いたします。

池田先生は、わたしにとって、数少ない「恩師」でした。先生と出会えたことを心から嬉しく思います。


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池田温先生に接した 3 年
熊澤弘(本学科講師)

池田先生ご逝去のご連絡を受け取ったとき、私はドイツ・ボンで、長年にわたって準備を進めてきた印象派の展覧会準備の最終調整を、現地美術館で進めているところでした。ご葬儀に伺うことのできなかった私は、その報を受けた夜、東の方角に向かって一人献杯を掲げることしかありませんでした。先生と最後にお話をさせていただいたのは、2015 年度のはじめのことです。池田先生が名誉教授を授与されるために入間校舎にお越しになったとき、桜の舞うなかで先生と写真を撮らせていただいた時が最後の機会となってしまいました。
池田先生とのご縁は、私が本学でお世話になるようになった 2012 年からの 3 年という短いものであるため、私自身は先生のこれまでの業績を語る資格はありません。しかし先生とご一緒することのできた 3 年間は、私にとって極めて印象的なものでした。2012 年からの 2 年間、音楽環境運営学科の仮研究室が江古田校舎に開かれたのは演奏部長室の向いの部屋でした。この学科で私がどのように活動をすべきかに悩んだ折、池田先生はご多忙であるにもかかわらず、私のような若輩者の相談にたびたび乗ってくださいました。あるときは学生の指導方法を、あるときは外部機関との折衝に際しての注意事項を、ある時は演奏家の方々への対応など、様々なご助言をくださいました。そのご助言に、先生のこれまでのアートマネジメントの現場の膨大な蓄積が垣間見え、先生への畏怖の念を禁じえませんでした。
このような現場に即したご助言以上に印象に残っているのは、先生の音楽的なご経験に触れる瞬間があったことです。江古田校舎の外で昼食をご一緒したとき(そのような機会には時に、現演奏部長の八反田さんもご一緒されていました)、先生が学生時代、作曲家の箕作秋吉先生の平塚のご自宅に足を運ばれたことを、懐かしそうにお話されていました。また、オペラのお話で、カルロス・クライバーミュンヘンで指揮したオペレッタ《こうもり》のことで大いに盛り上がり、とりわけ第二幕に登場するオルロフスキー公爵役のブリギット・ファスベンダーのアリア”chacun à son gout”での芸達者振りが先生のお気に入りであったことも、懐かしく思い出されます。
このようなお気遣いや音楽的なご経験のみならず、池田先生に対して私が最も共鳴したのは、仕事、芸術、そして人物に対する厳密な目でした。様々なお気遣いをなさりながらも、先生はクオリティに対して妥協なき精神をお持ちでした。それを体感することができる機会があったことは、私にとって忘れ難き経験となりました。だからこそ、池田先生とは率直に、ある時には激論ともいえるようなお話をすることができたのだと思っております。そして、そのような私を寛大にも受け入れてくださったことを、心から嬉しく思います。
本学学生、教職員のみならず、お会いしたすべての方に愛された池田温先生は、音楽の世界から門外漢であった私にとっても忘れ難き恩師でありました。先生へのご冥福を心よりお祈り申し上げます。